西林克彦さんの『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』を読みました。
西林さんの本は初めてです。
これはですねー、本当におもしろかったです。
そして、本当に耳の痛い(?)本でした!
この本の帯に『ほとんど宣伝してないのに、口コミで20万部突破』とありました。
まー、おもしろいですからね、口コミで広まりそうだな、と思います。
文章を読むとき、どうしても自分がすでに持っている『先入観』を排除しきれなかったり、自分がすでに持っている『知識』に照らし合わせて読んでしまったりすること…ってありますよね。
それは私自身も良くやることですし、決して悪いことではないと思うんです。
特に推理小説なんかを読むときは、「前に読んだこの話に似ているな」なんて思いながら読むこともまた、とてもおもしろいわけですし。
でも、国語のテストで出るような文章の場合ですと、それが『ノイズ』になってしまう事がある、ということがよくわかりました。
先入観や前知識がじゃまになって、内容を正しく理解できないこと、あるんですね…。
「だから『読解力』がつかない」と言われると…つらいですね。
そして、悲しいです。
ただ…私にも言いたいことはあります。
『国語のテスト』なら仕方ないと思うので、諦めてメモを取りながら読むしかない、と思いますよ。
というか、解答の『テクニック』として「問題を先に読む」というのが存在しているわけですから、そのテクニックを駆使したりして、どこをきちんと読めばいいのか、厚く読むところと薄くでいいところを見分けて読んでいかないと、時間内に終わらないですよね。
その上で、本書の中に出てきた『正倉院とシルクロード』の文章です。
これ、多分私も読んだことあるような気がします。
タイトルに聞き覚えがあります。
やっぱり、小学校か中学校の教科書に出てきたような気がするんですよね…。
で、今回改めて読みました。
これは…なんか、いろいろひどくないですか…?
「わざと誤解させるような書き方をしている」とまでは言わないですけど、誤解を生むような表現が多いような気がするんですけど…。
まさに『試される文章』な感じがしますね。
しかも、本書の中で大学生たちは、この文章を「短い時間で読んで」と言われているわけですよね。
ちょっと、というか、かなり大変だったと思いますし、かわいそうだなと思いました(笑)。
一方で、「もし もし お母さん」の話の方は、比較的正しく認識できていたなと感じました。
それでも、「あたたかいお日さまが、えんがわでねむっているお母さんねこをてらしていました」という最後の文章。
…これを読んで、どうしても反射的に「このお母さん死んでないよね!?」と思ってしまう私は…なんというか、人が死ぬ小説をたくさん読み過ぎなのかもしれないな、と思いました(笑)。
だって、なんか『召される』ときの表現っぽくないですか…?
まぁ、これこそがまさに『先入観』なんだと思うんですけどね。
あと、お母さん猫が子猫たちと電話で話しているときの「よかったわねえ。これからも、みんなにかわいがられるように、おぎょうぎをよくするのよ」という感じの、『会話の中に唐突に注意事項をいれる』という技、本当に『お母さん』っぽいなと思いました(笑)。
母親って、こういうことやりがちですよね…。
自分の母がよくこんな話法で話していましたし、私自身も同じような話法で話してしまいがちです。
国語のテストのような状態と、そうではなくエンタメとして趣味としての読書の場合とでは、まーちょっと勝手は違いますよね。
以前読んだ『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』にも出てきたんですが、『誤読する自由』みたいなものも、私達にはあるわけです。
それらも含めた状態で、他の人と1つの文章について話ができるというのも、それもまた醍醐味かなとは思うんですよね。
それとは別に、もちろん『正確に読まなければいけない文章』を『正確に読める』ようになりたい、とは思っていますけどねー。
なにはともあれ、『文章を読む』ということはどういうことなのか、考えるきっかけになりました。
とても貴重なことですね。
願わくは、これから私が触れる文章が『試される』ような文章ではなく、比較的平易でわかりやすいものばかりだといいな、と思います(笑)。
まぁ、今の時代は AI があるので、それが使えるときは一緒に読んでもらって、大切な文章の『誤読』や『読み飛ばし』がないようにフォローしてもらいたいなとは思います。
AI ですら誤読してしまうようなゴチャゴチャした難解な文章は、『製造者』の方々の方が少し反省してほしいと思ってしまいますね…。
いい時代になったなぁ。



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