岡田尊司さんの『自閉スペクトラム症』を読みました。
岡田さんの本は『アスペルガー症候群』以来です。
前回の『アスペルガー症候群』のときも書きましたが、私には現在小6の息子がいて、幼稚園の年長くらいで問題行動が目立ちはじめて児童精神科に通い、小1で転院して『発達グレーゾーン』と診断されています。
なので、少しでもなにか実行できるようなことが書かれていないかな、と思って読んだんです。
ただ…『アスペルガー症候群』のときは全然そう思わなかったんですが、こちらの『自閉スペクトラム症』を読んだときは涙が止まらなくなってしまって…。
なんでしょう、自分の心に余裕がなかったんでしょうかね。
ちょっとしんどかったです。
小学校の同級生の弟さんが『自閉症』だというのを思い出しました。
同じ社宅に住んでいて、何度か一緒に遊んだことがあった子でした。
そのとき初めて聞いた『自閉症』という名前からして、「ずっと自分の中に閉じこもって、暗く静かにしている子なのかな」と思っていたんですけど、実際の弟くんは結構騒がしく落ち着きのない子でした。
『自閉症』という字面と彼が一致しないな…とずっと思ってきました。
『自閉症』というのが、「自分以外あるいは自分が慣れ親しんだもの以外を受け入れられないということ」という定義だとのことで、それでようやく腑に落ちた気がします。
途中で、回復例としてラウンという子どもの話が載っていました。
その子の両親がその子にした療育というのが、ものすごく献身的なものでした。
狭い部屋にいたほうがラウンと目が合いやすいということで、ずっとラウンとバスルームに閉じこもって、彼がやっていることをひたすら真似をして、それを心の底から楽しむ。
自分がラウンのそばにいるということに気づいてもらえるように、努力をずっと繰り返していました。
奇跡的にラウンはその方法で『回復』したみたいなんですが…。
それを読んで、逆に追い詰められたような気になってしまいました。
それだけの療育を長い間やり続けることができる体力だったり、根気だったり、経済力だったりが揃っていないと、ラウンはそのまま『自閉症の子供』として育ってしまっていたんでしょうか。
そこが、分かれ道だったのかな。
自分がその立場に立たされたら同じことができるか、と聞かれたら…どうでしょう、多分できないんじゃないかな、と思ってしまいました。
私は産後あまり眠れなくて、息子もあまり寝ないタイプの子供でした。
なんだかずっといっぱいいっぱいだったような気がします。
こうやって選別されてしまうのかな、取り返しがつかないのかな、と。
このあたりが一番つらくて泣けてしまいました。
あとは、『手間を掛けた食事を日々用意する』というフレーズ。
これもちょっとつらかったです。
例えば共働きとかしていたら、そんなに手間を掛けたものを毎日作れないです。
なにかネットの記事で、「愛情をかけた食事、おふくろの味うんぬんと言っている国ほど出生率が低い」というのを見た記憶がありました。
ちょっと探したんですが見つけられなかったので、ひょっとしたら幻だったのかもしれません。
でも、なんか漠然と「こうやって人類は滅んでいくのか…」と思ってしまいました。
やっぱり心が疲れてますかね…。
『自閉症の僕が跳びはねる理由』という本についてもちょっと触れられていました。
自閉症の子が反復動作をする理由などが、その本から引用されていました。
この本、私も以前読んでいました。続刊もです。
読んだときに、当事者からちゃんとそのように語られる言葉がすごく新鮮だったことを思い出しました。
もし、ラウンくんに施されたその療育が普遍的なものなのであれば、ちゃんとしたメソッドが確立されて、それを地域とか貧富の差とか関係なく、ちゃんと必要な人が受けられるような世の中になればいいな、と思います。
療育者の負担が減ることを願ってやみません。
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